心を変える
僕が霊的なトレーニングを始めた頃、心を変えることが重要であると考えていたのです。
一般的にも人間の内面的な部分、それが心だからです。
ところが霊魂学は心に触れるどころか「魂からみれば心など、ほんの一部分に過ぎない」というのです。
高級霊は「心など汚くても、力をつけよ」というのです。
自分を変えようと思って来たのに、何が何だかよくわからなくなったのです。
心はそのままで成長できるのかと?
今思えば、とても単純なことでした。
人間の心は変わりやすいし、人間の本質を表現するとは言い難いものなのです。
人間は肉体を持ち、脳を使っています。
心は脳に刺激を与えると変化しますし、暑い寒い痛いかゆい、そうしたことでも変化します。
年をとると肉体の機能の働きも悪くなり、認知症になると心が低くなるのかいうと、それは脳の働きや障害の問題でしかないのです。
あの世に入れば、幽体の存在になりますので、肉体の脳とは無関係です。
幽体の脳のようなものがあるでしょうし、心も存在します。
ただ、幽体の質や状態は人により様々ですから、その身体に相応しい世界に入ります。
それが、霊的な現実であって法則です。
宗教はよく、心を変えましょうといいます。
しかし、人間は愛や平和を何千年と唱えていても、争いは絶えないし差別も消えません。
聞こえは良いけれども、悪い悪いと言いながら改善される気配もありません。
これは、人が争いや差別する性質をもともと持っているからだと考えます。
人間は自己中心的で自分がいちばん大事で、気まぐれであるということを意識せずに、理想論ばかり並べても解決できない問題だと思います。
もっと人間を分析し、目先の幸福ばかり求めるのではなく人間を不幸にさせてしまう原因を追究すべきではなかと感じます。
こうしたことがなされなければ、お互い足の引っ張り合いでしかありません。
もちろん、倫理や道徳を考えることも大事です。
心と善悪
心について霊魂は「心など汚くても、とにかく力をつけよ。心などあの世に行ってからでも何とかなる」と言います。
まず優先させるべきことが、幽体に力を持たせることだったのです。
死後の世界は幽体の質や状態で、行くべき世界が決まります。
心がきれいだとか汚いというは、何を基準にするのか、見方によっても大きく変わります。
良くも悪くも、思い込みであったりもします。
たとえ、心がきれいであっても、死後の世界が暗いものとなってしまっては困ります。
契山館、霊的なトレーニングの会では、日常生活における戒律というものがありません。
生き方を問題にするのではなく、霊的な進歩向上を考えるからです。
生き方が大切というのなら、生まれる時代、地域や環境、教育や文化、そうした異なる前提を踏まえての生き方を模索しなければならないのに、一律に「こう生きましょう」と簡単には言えないものです。
『教え』も、昔の人にはそれがありがたかったし、より良い社会につながったことでしょう。
時代が過ぎ、現代のように、様々なものが変わってしまった状況において通用しないのであれば、決して真理とはいえるものではありません。
心イコール表面意識とするなら、霊的修行者においては、その成長も必要なことだと思います。
潜在意識と呼はれるような深い意識、その根本を変え、それを表面意識が表現しようとするなら、それに伴う成長も必要になるのではないかと思います。
心の成長
霊魂学においては、心の成長が無意味であると言ってわけではありません。
この辺は、誤解のないようにして頂きたいと思います。
社会における人間関係などは、心の成長が大きく影響を与えます。
大人になって、いつまでも子供のような心では、社会から弾かれてしまいます。
霊魂学では、心の変化や成長が、必ずしも霊的成長につながるのではないと、考えているのです。
人は一人では生きて行けないのだから、他者に対する思いやりも助け合いも大事だし、必要です。
それを霊的進歩だと考えることが、間違いなのです。
日々の生活の中で良いことをすれば、あの世の上の方に入るのではなく、法則に従って、おのずと住む世界が決まってしまうということです。
もちろん、悪いことをすれば他者からの念により、幽体が損傷してしまうこともあります。
そうなると、低い世界に入りやすくなってしまうのです。
ただ、人間として生きているうちに、それを修復して幽体が良い状態になれば、上の世界に入る条件が整うのです。
「そんなのどう考えたっておかしいよ!」と、お思いなるかも知れませんが、それが法則なのですから仕方ありません。
それでは見方を変えると、地上に生まれることにより、誰しも大なり小なり、今も過去の人生においても、悪いことをしているのだから、皆地獄に一直線となってしまいます。
本当の意味での善人は、生まれて来ないのです。
未熟な部分あるからこそ、人は生まれて来てしまうのです。
自分が善人だと思っている人は、自分を知ろうとしない、省みない人ではないでしょうか。
このような状況ではあまりにもかわいそうだから、更生する機会も与えようということで、高貴な存在は霊的なトレーニングを降ろしてくれたし、高級霊は力を流してくれるのだと思います。
人のこころは、なぜ複雑になってしまうのか
もっと人間の心の中が単純であれば、苦しまずに済むのかもしれません。
自分の考えというものが、こうと決めたら、余計な思いが浮かんでこなければ良いのです。
そうすれば、迷ったり葛藤も起きず、心も楽になることでしょう。
そんなことを考えたところで、現実にはどうにもなりません。
なぜ複雑なのかといえば、意識が複数あるからです。
仮に人間が肉体のみの単体であれば、単純です。
ところが、表面的な意識の他にも、潜在意識や深層心理と呼ばれているものがあります。
「人は先天的な意識を有しているのではないか?」ということは、心の研究でも認められているようです。
これが「どこに記憶されているのか?」という壁に突き当たっているのが、心の学問です。
霊魂学では、すでにわかっています。
詳しくは「幽体の悲劇」をご覧ください。
「おぉ、世紀に大発見じゃないか」と思う方もいるでしょう。
そうなのです。
さらには、その意識を変えてしまうような技まであります。
天地がひっくり返るほどの革命といえますが、実はすでに何千年も昔にあったのです。
まさに、人生を大きく変えてしまうことでしょう。
それが宗教であるために、世の中に浸透しなかったのかも知れません。
実際に、霊的カルマの解消法であるトレーニング、神伝禊法というものが、ほとんど広まらない状況です。
精神科のお医者さんの方に、信頼があるようです。
それが、単なる運動のようなものであれば、医学でも採用される可能性もあります。
ところが、霊的な部分に作用しなければならず、信仰心が無いと、全く効果がないのです。
やはり、宗教の世界にとどまってしまいます。
これは、当たり前というか必然でしかありません。
世の中の多くの人は、霊魂の存在を否定する傾向にありますし、神や仏も架空の存在となっています。
人間の根本を排除しているのです。
人間の先天的な意識は、幽体という霊的身体の心であって、その意識を変えるためには、霊的な力が必要なのです。
その力とは、より進歩した霊魂からの流れでしかないのです。
世の中が霊的なことに関心に向かなければ、宝の持ち腐れになり兼ねません。
何千年も前であれば、人の霊的カルマも今より軽いものだったといえます。
ところが今現在に至るまで、何度も再生しています。
さらに深刻になっていると考えられます。
それでも神伝禊法は、現代人向けに改良されています。
数千年前と生活形態や、霊的な環境、状態等の変化にも対応しているのです。
世の中の流れ、それが必ずしも正しいとは限りません。
多くの方が霊的な事柄に関心を持ち、霊的進歩・向上を目指して頂けることを願っています