霊能力開発
僕も霊的なことに強く関心を持ち始めた頃、何か実感を得たいという気持ちもありましたので、霊能力に興味を持つことも理解できます。
いつの時代も霊能力が、いとも簡単に身に付くようなことを言う人がいます。
タイトル「霊感ないんです?」で「霊的な力とは、肉体の健康や肉体を正常に機能させる力でもあるのです」と言いましたが、霊力がある人は、肉体を正しく機能させている方です。
つまり霊力が弱ると霊能力が現れやすくなるのです。
霊力と霊能力を混同されているかも知れませんが、霊能力はあくまで技術的なことを指しています。
霊的状態が悪くなると、霊魂が干渉しやすい状態を作ってしまうのです。
霊魂学では間気と呼んでいる気がありますが、その間気が不足すると、肉体と幽体の密着が弱まってしまいます。こうした時に霊的現象が起こりうるのです。
このような状態では、正しい霊的なトレーニングなど行っているとは考えられませんので、寄って来たのは未熟な霊魂です。
いかに神や仏を名乗り立派なご託を並べていても、背後にいるのはそれなりの霊魂でしかないのです。
霊魂は人間のように寝たりしませんので、四六時中干渉してくれば、この身が持ちません。
ケガをするのは一瞬でも、治すことは大変なのです。
まずは、正しい霊的トレーニングを積み重ねてから、技術を身に着けることが望まれます。
誰にでもある霊的な力
このブログで霊力と呼んでいるものと少し異なりますが、霊的な影響を相手に与えたり、受けたりすることがあるのです。
それは人間が幽体という霊的身体をダブらせているからです。
想念とは心に浮かぶ考えのことですが、こうした思いが霊的な力を持つのです。
念の力で物を動かすという方もおりますが、幽体から発する念は幽質なので、物質に作用するものではありません。
強く念じることにより、間気というものが流出し影響を与えることが可能になるのです。
もちろん、こんな実験はお勧めしません。
スプーンも手で曲げれば良いし、物を移動させるのも手を使う方が簡単です。
間気は肉体と幽体を接着させる役目を持っているので、無駄づかいは禁物です。
人が強い恨みや憎しみを抱く時、その念が相手にダメージを与えてしまうのです。
もちろん、幽質なので肉体には直接影響しませんが、幽体が傷ついているのです。
後にその影響が、肉体に現れる場合も考えらえます。
人間関係において、お互い気づかない所でこうしたことが起きているのです。
それでは、その傷が優しい思いをかけることで修復されるかというと、そうでもありません。
きっかけは些細なことであっても、霊的カルマと相まって、強力になってしまうこともあるでしょう。
こうした悪循環を繰り返してしまうのが、現実のようです。
人間同士お互い感情がありますから、怒るなといわれても無理です。
通常、怒るとは悪感情のように捉えらえるかもしれませんが、そうでもないのです。
相手が本当に悪いことをしていたら、真剣に怒って止めさせなければいけません。
お釈迦様が怒っても、こうした悪影響は起きないのです。
「お互い霊的に成長すれば良いのです」などと言うのも非現実的なので、自分が霊的に成長し、強い感情を出しても悪影響を及ぼさない、そして念にも勝る幽体となることが肝心かと思われます。
高級霊による霊的調査(診断)は、後からじわっ~とくる
かれこれ20年近く昔、友人に師が行う霊査(霊的調査)を勧めました。
その時はピンとこないようでしたが、最近になり「あの先生は当たるよ!」と言っていました。
友人はプライドが高く、強がりなところもあり深くは追及しませんが、霊査で指摘された心理が現れたのではないかと思います。
当たる霊能者はたくさんいることでしょう。
日常的な出来事は、人間に近い霊的レベルの霊魂の方が詳しいかもしれません。
ところが、人間の過去世といった魂というレベルの調査は、低級霊には無理なのです。
あげくの果ては、低級霊が、さも当たったかのように働きかけたりしています。
昔から占いは「あたるもはっけ、あたらぬもはっけ」というように、統計学的要素が強いものですが、良く当たる方は、霊能者のように霊魂が手助けしている可能性もあるようです。
この世で暗躍する低い霊魂は、人間を操りたいとか、自分の仲間に引き込むことが目的です。
良く当たると評判が立てば、人が大勢訪れてくれるのだから、願ったり叶ったりということになります。
自分の努力を忘れ、目先のご利益ばかり追い求めてしまうと、低い霊魂のえじきになってしまいます。
「じゃぁ、お前だって霊的なトレーニングで死後の幸福を得ようとし、ご利益を求ているだろう」と言われるかもしません。
ただ霊的なトレーニングとは、あの世で上の世界に入ることだけが、目的ではありません。
低い世界が異常なだけです。
霊魂として、ごく普通の世界入り、さらなる魂の進歩向上を求めて行くのです。
それが霊魂としての自然な欲求でもあるのです。
霊能力を求めると人生が不幸になる
世の中には霊魂の存在を信じる人や、信じない人がいます。
通常、人間というものは、肉体があるため霊的なことはわかりづらくなっています。
また、科学という分野においては、物質主体に考えてしまうために、本来物質ではないものを探求することが困難となっています。
確かに、物質科学という観点で霊魂の実在を証明することはできません。
信じる人と、信じない人が存在すること仕方のないことでしょう。
それでも、科学で証明されなくても、真面目に求めれば、自分にとっての確信が得られるのではないかと思います。
僕自身、霊が見えたり声が聞こえるわけではありませんが、霊魂の存在を信じているというより、当たり前のように思っています。
もちろん、他人に証明するようなことは出来ませんが、霊魂はいると思っていたからこそ、それをどう自分自身で、感じ取ることが出来るのかを追い続けてきたからだと感じます。
ここで安直に、霊能力など求めないで頂きたいと思います。
低い霊能力など、比較的早く目覚めてしまうのです。
実は霊的障害状態をつくることで、霊が見えたり、声が聞えてきたりします。
それで何が得られるかというと、人間の異常現象と低い霊魂と交流です。
こうなると通常の生活に支障を来たし、死後の世界は暗いものとなってしまいます。
低い霊魂と交流が深まってしまった人を見て来ましたが、そうした霊魂と肉体を共有しているような状態です。
助言も耳に入らなくなり、まるで自分があってないようなものです。
こうした方の将来に不安を感じますが、他人では、もうどうすることも出来ません。
やはり、霊能力を求めるのではなく、霊力を得ることが大事です。
不思議な力に魅力を感じるかもしれませんが、人生を棒に振るほどの価値などありません。
死んでから後悔しても手遅れです。
霊的なトレーニングを積めば、他人が何と言おうと霊的な確信が得られるし、霊能力などなくても、霊術を行使することも可能です。
自分自身の成長にもつながり、他の人に役立てる力となるはずです。
そうした方が増えれば、霊的な環境も改善されるのではないかと思います。
師は集会に瞬間移動で来ていなかった
入会当初、欠かさず集会に出かけておりましたが、瞑想していて同じ時間になると、廊下からコツッ、コツッ、コツッと先生の足音が聞こえて来るのです。
僕は「きっと、瞬間移動しているに違いない」と思っていたのです。
今となっては笑い話ですが、真剣にそう信じていました。
確かに霊魂であれば、肉体を持たず霊的身体のみなので、壁をすり抜けたり、瞬間移動も可能です。
しかし、いかに霊能力者であっても、生身の人間に出来ることと出来ないことがあります。
こんなこと説明するまでもないかぁ。
昔、この霊的集会に、知り合いを通じた人達を連れてきたのです。
ある宗教的思想を、支持する達だったのです。
そのうちの一人の方が、公開霊査(霊的な調査、診断)を申し込まれたのです。
その方は、手を当てる式の施術を行っている方でした。
霊的調査により、手から間気が流出して、間気不足である指摘をされました。
そして、支持する宗教的思想に関与する、低い霊魂がいることを告げました。
集会が終わり、僕は喫茶店でコーヒーを飲んでいました。
すると、ガヤガヤと入って来る人がいましたので、横目で見ると集会に誘った人達だったのです。
もちろん、僕のことは気が付かない様子です。
彼らの話に耳をすますと、霊査を受けた方が話はじめました。
「あの人が、先生に私のことを事前に伝えていたのでしょう」と笑っていました。
当然、あの人とは僕のことです。
実は師には、彼らのことは何の告げ口もしていないのです。
ということは、霊査の内容が図星だったということです。
恐るべし、霊的調査。
霊感ないんです?
それでいいんです。
本来、見えないものが見えたり、聞こえるはずのないものが聞こえるのは異常です。
霊的な力とは、肉体の健康や肉体を正常に機能させる力でもあるのです。
確かに霊能力を持った人もいます。
本物の霊能力というのは、それ相応の努力や、苦難を経て得られたものです。
高級な霊魂と通じ合う訓練、正しい霊的なトレーニングの積み重ねがあって発揮されます。
このブログでは、信仰心の必要性を偉そうに語っていますが、実は僕も不真面目な部類だったでしょう。
宗教など、全く興味がありませんでした。
今思えば勉強嫌いのようなもので、難しい話を頭だけで理解するのではなく、実体験を通して自分のものとしたかったように思えます。
子供の頃から霊にまつわる怖い話や、いわゆる幽霊は存在すると思っていたし、亡くなったおじいさんもおばあさんも、霊魂になっていると考えていました。
つまり霊魂の存在を信じるのであれば、様々な霊魂もたくさんいて、いちばん霊的レベルの高い霊魂がいても不思議ではないですよね。
僕は、そうした存在を理解できれば良いと思っています。
難しい神様や仏様の名前など、所詮人間が勝手に呼んでいるだけで、話を難しくして、高貴な霊的存在を遠ざけてしまっているような気がします。
また、神の名を借りての売名行為や、自分に都合の良い神を語ることで、品格を落としてしまっているのかもしれません。
ただそれは、人の考える神や仏であって、本来の高貴な霊的存在とは無関係に思えます。
自分にとっての高貴な存在を信じ、少しでも近づくことが出来ればそれが霊的成長であると感じます。