作法、いかにも宗教という感じです
霊的なトレーニングの会、契山館では霊的集会というのを定期的に行っています。
先日も支部集会に参加しました。
むかし僕は、集団で何かをするとかを好まなかったし、皆で頭を下げたりしているのを見て、いかにも宗教という感じで、変なものに陶酔しているのだろうと思っていました。
こうして、霊的なことを学んでいくと、僕自身が、浅はかだったと恥ずかしく思えます。
霊的な集会とは、霊的な高い気を吸収することにあったのです。
なぜ、そうした気を得ることが出来るのかといえば、高級な霊魂が降ろしてくれるからです。
高級霊魂の存在というものを前提としなければ霊的には意味がなく、単に瞑想をしても心をリラックスさせる程度でしかありません。
悪くすれば、低い霊魂の影響さえ受けてしまうような現実もあります。
人と人であれば、会話することも出来ますが、それが50m離れた人に意思を伝えることは難しいものです。
例えば、タクシーに乗りたい時に手を上げれば止まってくれるし、横断歩道を渡ることも出来ます。
約束があれば、お互い理解します。
霊魂は当然肉体がありませんから、会話もできませんし、まして高級な霊魂であればあるほど、人間と霊的レベルの違いがあると、その存在すら良くわからないのが実状です。
しかし、人間には肉体とダブっている霊的身体があります。
霊的なトレーニングを積んだ方は、強いオーラを発しています。
このオーラが、高級霊魂の目に止まるのです。
こうした方が中心となれば、参加者は高級な霊魂の力を受けることができます。
皆で一緒に頭を下げるといった、いかにも宗教的と思えた行為は、実は、その作法であり高級霊魂に対する意思表示だったのです。
信仰心の表現という捉え方もあるかもしれませんが、頭を下げればオーラが変化します。
それを霊魂が見ているのです。
「この人は、霊的な力を流して欲しいのだな」とわかるのです。
昔は神社やお寺でも、こうした高い気を吸収出来たと聞いていますので、宗教の違いはあれども、何らかの約束ごとがあったと思われます。
霊的な集会というような、共通した意思を持つ人達が集まることにより、到底一人では出来ないような高い霊的空間をつくることが出来るのです。
いまのところ、霊的なトレーニングは出来ないと思われる方こそ、こうした集会に参加して欲しいのです。
普段、守護霊と交流が難しいような方でも、高い霊的空間に身を置くことにより、高級霊との接点を持つこともできますし、霊的不調の改善にもつながります。
修行の会というと、厳しい感じを持たれる方もいらっしゃると思いますが、そんなことはありません。
精神的な修養ではなく、自分自身の霊的進歩、向上が目的です。
謙虚に学ぶ姿勢は求められますが、厳しさは、自分自身の努力であって欲しいのです。
支部会では、瞑想と霊魂学講座、そして座談会の時間があります。
質問や疑問があれば、先輩会員が答えてくれます。
契山館では、こうした集会の見学も出来ますので、ご興味があればお問い合わせ頂ければと思います。
契山館会員の生活
霊的なトレーニングの会に入ると、日々の生活に不都合があると思わる方もいるでしょう。
確かに、宗教というものは教義や戒律があります。
こうしたものを守れない人は、決して良い信者とは言われません。
さて契山館は、どうでしょう。
これといった決まりもないのです。
常識的な姿勢を求められる程度です。
各種研修や集会も、なるべく参加した方が良いと思います。
それぞれ事情がありますから、自由意思で構いません。
僕は、契山館に入っていることで、日常生活で支障や不都合を感じたことはありません。
日本は、霊的なことに関心も低く、信仰心を持つ方も少ないのです。
それでも、お葬式や結婚式のように、宗教という慣習的な行事もあります。
以前、親戚にキリスト教系の信者がいました。
その父が亡くなり、仏式の葬儀には参加しませんでした。
自宅で弔うというのですが、他の親戚にも親不孝者だと言われ、人間関係も悪くなってしまうようです。
どちらが良いとか悪いとか言いませんが、宗教に入る人は、変わり者だと思われてしまうのでしょう。
話を戻します。
現代は霊的な環境が、とても悪くなっています。
悪い幽気や低い霊魂は、どこにも存在します。
だからといって、消極的になってしまうのではなく、そうしたものに対抗できる自分になることではないでしょうか。
僕も必要であれば、何処でも出かけます。
付いてしまうものは仕方がないので、霊的なトレーニングで処理できるのです。
水の禊などは、風呂に入った時に出来るし、鎮魂法なども10分程度で行えます。
こうしたトレーニングに興味のある方は、あまり難しく考えないで欲しいと思っています。