えつ?1日たった10分の霊的なトレーニング
そうなんです。1日10分もあれば行えるのです。
霊的なトレーニングというと、難行苦行といわれるような修行を思い浮かべてしまうことでしょう。
寝ずに山の中を歩き回ったり、極寒の滝に打たれたり、断食や長時間の瞑想…。
僕が紹介する霊的トレーニングは、自宅で毎日行うことができます。
特定の場所でしか出来ないようなものであれば、年に数回といったところでしょうが、自宅なら自分の好きな時間に行えますから、一年に300回以上だって無理ではありません。
なぜ、霊的なトレーニングで人生が変わるの?と疑問を持たれる方も多いと思います。
それは、人間が肉体だけでなく霊的な部分を持ち、気づきにくいところで様々に関わっているからです。
人の死とは何か。
それは霊的な身体である幽体が肉体から離れてしまった時です。
人が生まれるとは。
幽体が肉体に宿ることを意味します。
肉体のみで生きている人など、どこにもいません。
こうしたことは、何千年もの昔から分かっていたことですが、それを世の中の人が、どう捉えるかだけなのです。
古代の純朴な信仰心を持った人々は、素直に受け入れ、それが常識となっていたでしょうし、現代のように文明や科学が発達した社会においては、物質科学が優先し目に見えない物質以外のものを否定する傾向が強くなり、霊的な感性を鈍らせてしまうのでしょうか。
霊的なトレーニングは誰でもできる?
霊的トレーニングは誰でも出来るかと聞かれれば、誰でも出来ます。
しかし、誰にでも効果が出るかといえば、そうでもありません。
作法、動作自体は決して難しいものではなく、誰でも行えると思いますが、前提が出来てはじめて力となります。
作法や動作は蛇口をひねる行為であって、水道管につながっていなければ水は出てきません。
その水は高貴な存在からの流れです。
流すに相応しいと認められることが必要です。
それが信仰心や熱意、謙虚に学ぶ姿勢などです。
薬品も薬効があるものほど、医師の処方箋が必要です。
それは患者さんの治癒や副作用を最優先に考えるのであって、裏で平気で流している人がいたら、善意ではなく金儲けを優先させているのです。
霊的な分野は見えないだけに怖い世界です。
見よう見まねで瞑想や、トレーニング法を行い、悪意を持つ霊魂に目をつけられたら大変です。
それこそ、悪い方向に人生を変えてしまいます。
契山館で指導する霊的トレーニングは、各種研修を修了したのち、家庭でも行えるようになります。
霊魂の家庭教師が来てくれることで力となり、危険からも守ってくれるのです。
今じゃないでしょう!?
霊的なトレーニングをお勧めする理由は、深層心理とか潜在意識と呼ばれている過去世の記憶、心情を和らげ改善することにより、人生をより良い方向に導くとともに、魂という大きな視点での自分を成長させることにあります。
次に幽体という霊的身体を強化、発達させることにより、死後不幸にならないように備えておこうというものです。
現代人は生活を維持するだけでも大変で、慌ただしい日常を送るだけで精一杯、死後のことなど縁起でもないし、あの世に行ってからでも何とかなるだろうと、お考えもあるかもしれません。
それでも死後の世界は、霊的身体の質や状態により分かれてしまいます。
これは、えん魔様が審判を下すようなものでなく、植物でも種類によって生きやすい場所や条件が限られるように、自分に相応しい、馴染みやすい所に行くしかないのです。
低い世界に入ってしまえば、なかなか上の世界に上がってくることが難しいようです。
まわりは同じような霊魂ばかりで、天使や菩薩はどこにもいないし、守護霊のような霊魂は遠い世界で、新参者はいじめられ逃げ場さえない状況になります。
後悔しても、どうにもならないようです。
だからこそ、霊的世界を理解していたイエスキリストは、自分の人生を犠牲にしてまで、真の幸福に導くために、人々に強く訴えかけたのでしょう。
この物質界に生まれるということ、は大きなチャンスなのです。
地上でつくった辛い苦しみや傷は、この世で癒すしかありませんし、あの世では高級霊は遠い存在であっても、今なら接点を見出すことは容易なのです。
多くの高級霊が、手を差し延べようと待っています。
トレーニングは誰の為
霊的なトレーニングは自分の霊的な進歩向上の為に行いますが、それにとどまるものではありません。
今、このブログを読んでいるあなたが、霊的成長を遂げることで、その霊的影響は図り知れないのです。
霊的トレーニングを積めば、様々な霊術も可能となります。
もちろん、資格を満たした上で霊術の講習を受ける必要がありますが、家族や友人等に、祓いや霊的治療といったものが行えるようになるのです。
影響を与えるのは、人間に限定されたものではありません。
例えば、あなたの先祖がどうした訳か地上に戻って来て、自分の子孫が霊的に成長しているのを見たならば、心を入れ替えるきっかけとなるかもしれませし、この地上には、道を間違えた霊魂がたくさんいますので、目覚める霊魂もいることでしょう。
高級霊とされる守護霊なども、担当する人間が霊的成長を遂げることで、同時に進歩できるのです。
そして幽界で生活している自分の過去世本人にも、影響を及ぼします。
さらに、霊的カルマというものを、それぞれの人が持っています。
その集積が社会を動かしています。
こうした大きな霊的カルマでさえ、数が増せば、変化させることも可能ではないかと思います。
このように、一人の人間が霊的成長することで、多くの人や霊魂にも影響が及ぶのです。
初歩の霊的トレーニング
霊的なトレーニングをアピールしているくせに、そのトレーニングのやり方が、載っていないと不満に思われることでしょう。
「このブログは単なる営業行為か?」と勘違いされるかもしれません。
もちろん契山館からは、お金をもらっている訳でもないし、しっかり会員として会費を払っています。
かれこれ25年くらい前になりますが、水波一郎著「大霊力」を読んで入会したのです。
当時5才だったので、今は30才になります。(これは嘘です)
確かに疑ってはおりませんでしたが、盲信とも違っていたと思います。
集会や研修に参加し、不思議なこともありました。
自分の変化というものはわかりにくいもので、長い月日が経つと、昔の自分とは大きく変わったなと感じます。
老けたというのではく、内面的なものです。
本物に出会えて良かったと思っているのです。
それで、多くの人に体感して頂きたいと願い、細々とHPやらブログをやっています。
今でも霊が見えるとか、聞こえるという霊能力はありませんが、指導霊が実在し、僕の思いに働いてくれるという、ありがたい実感はあります。
以前、遠方の方から遠隔で霊術の依頼があったのです。
遠隔なんて習ってもいないし、信頼されているから依頼されるのだと思うと、断るわけにも行かず、とりあえず行ってみました。
目の前に依頼者がいれば、何らかの手応えもあるかと思いますが、バットを素振りしているような感じなので、自信もなく2回行ってみたのです。
そして、この次からこうした霊術は断ろうと思っていた矢先、変化が生じたようで、お礼の連絡を頂いたのです。
うれしいやら、戸惑う複雑な心境でした。
料金は僕がもらってしまうのに、どなたかは存じませぬが、指導の霊魂に心から感謝しました。
そうそう、初歩のトレーニングでしたね。
本格的なトレーニングは、入会して研修に参加して頂くことになりますが、このブログを読んで、参考にして頂きたいと思います。
本物の霊的修行法、トレーニング
タイトル「祈りの力」にありますように、人間が霊的なエネルギーをどう自分に取り込むことが出来るか。
それが大きなテーマとなります。
信仰や祈りも大事なのですが、やはり個人で祈っても力は小さいものです。
それでは、集団で祈ったら良いのではないか?
そこにもっと高貴な霊魂とつながる人がいれば、さらに力を増すことができるのではないか?
では、どうしたら、人間が高貴な霊魂と交流が可能になるか?
霊的なトレーニングをすれば良いのではないか !!
本来はヨーガや仙道、この日本の古神道において、いかに高貴な霊魂に近づけるか、交流することが出来るか、これがトレーニングの大きなテーマでした。
時代は流れ、いつの間にか神通力だとか、霊能力といった見せかけの力、技ばかり注目されるようになってしまったのです。
古くから正しいトレーニングは存在していましたが、大衆化しにくい欠点もありました。
現代人のように忙しく霊的に悪環境の中、もっと確実に危険がなく短時間でどなたでも成果の出る手段として、生み出されたのが現代向けの修行法、トレーニング法なのです。
霊的修行法、霊的トレーニングの種類
契山館においては、神伝鎮魂法、神伝禊法というトレーニングを主に指導しています。その他に、神伝振魂法、幽育などがあります。
神伝の法とは、霊魂学における神霊、その存在に仕える高貴な霊魂団との契約により水波一郎師が作成された技法です。
神伝鎮魂(しんでんちんこん)法
今、肉体とダブっている死後の世界で用いる霊的な身体である幽体、さらにもっと高級な身体である霊体を強化、発達させること主な目的とした技法です。
神伝禊(しんでんみそぎ)法
潜在意識とか深層心理と呼ばれるような深い意識である幽体の意識は、何度もこの地上に生まれた過去世(かこせ)があり、その経験や記憶を持っており霊的カルマと呼びます。
こうした心理は、今回の人生において良くも悪くも影響します。
不幸や苦しみを招いてしまう心情をうまく処理し、霊的に良い方向へ向かう心情を生かして、更に進歩させ、魂という大きな自分を成長させる技法です。
霊的なトレーニングを知ってわかった瞑想の危険性
最近では、宗教に対しての嫌悪感から、宗教ではないと言い、瞑想を行う人達がいます。
瞑想するとリラクゼーション効果や、集中力がアップするそうです。
国内外の有名人なども、瞑想を行って成功を収めたといわれています。
では、宗教的でない瞑想と、霊的なトレーニングの瞑想は違うのでしょうか。
細かい点の違いはあるかもしれませんが、行っていることは一緒です。
片や肉体や精神面の為に行い、霊的なトレーニングでは、肉体とダブっている幽体という霊的身体の成長を促そうとするものです。
行う人の意識がどうあれ、瞑想法は修行体系から来ているものです。
霊的トレーニングでは、霊的環境や霊魂を前提にして行いますが、単なる瞑想では、そうしたことは全く考えていません。
そのような瞑想には、高級霊が関わることはないでしょうが、低い霊魂は、タイトル「気が付けなくて当然!暗躍する邪霊たち」でお話したように、人間のスキを突いてきます。
人間の側が「単なる健康法で行っていますよ」と言っても、低い霊魂には関係ありません。
来るなと言っても、来てしまうくらいの存在です。
霊的トレーニングでは、高い幽気を吸収する法であるということは、幽気を吸収しやすい状況といえます。
もしも、人間には見えませんが、低級霊が近寄っていたら、低い幽気を吸収しやすくなると考えられますし、他にも特殊な状態をつくり出しているのだから、いたずらするには持って来いということになってしまいます。
現代は霊的環境も悪く、低級霊も活発に活動しています。
人間の目的など、関係なく寄って来る危険があります。
心身には良いかもしれませんが、霊的な不調になってしまえば、何にもなりません。
どうせ瞑想するなら、正しい霊的トレーニングで瞑想して欲しいと考えてしまいます。
そうすれば霊的不調ではなく、幽体という霊的身体にも好影響をもたらしてくれます。
霊的に考える人間にとって救いとは、何を指すのか
キリスト教などでは「救い」という言葉が使われます。
では、この救いとは一体、何を指すのでしょうか。
イエスキリストの生きた時代は、現代とは異なり、生きるための不安も強かったと思います。
こうした時代には、イエスキリストの力強い言葉に人々は勇気づけられたことでしょう。
現代の日本においては、生活水準も高く、生きること自体が困難な人は少ないと思います。
単純に肉体を維持するための救いであるとするなら、健康で経済力があれば、わざわざ救われなくても良いと考える人もいることでしょう。
こうして宗教とは無関係な人から見ると、神にすがりご利益を求め、他力本願的という図式が出来上がってしまいます。
しかし、それだけでなく、魂としての救いというものをイエスキリストは示されています。
聖書の詳しい内容については良く知りませんが、当時の人々に対し理解しやすいように語ったと思われます。
霊的な救いとは、自分が霊魂という存在であることを無視しては考えられません。
原罪という人類の誕生までさかのぼり、魂という大きな視点としての救い、というものを唱えています。
イエスキリストは、霊魂学的には、大変高度な内容を示されたと考えられます。
人間は肉体を持ってしまうと霊的なことが分かりづらく、自分の存在すら見失ってしまいます。
今ある自分の不幸は、神のせいだと考えてしまう人もいます。
ところが、人は自らの意思で不自由を求め、神という高貴な存在から遠ざかってしまったのが、地上に生まれた人達です。
今のあなたも、人類の誕生から再生を重ね生まれて来ているのです。
霊的なトレーニングも、イエスキリストの精神と全く変わりません。
もちろん、イエスキリストの霊的トレーニングは残っていないようですが、幽体を強化発達させる為に欠かせないのが、高級な霊的な気というものです。
この高い気は、高貴な存在からの流れでしかありません。
どうすれば、こうした力を吸収できるのか。
当然、高貴な存在を無視しては、受け取ることはできません。
だからタイトル「祈りの力」にあるように「汝の神を愛せよ」と示すことで、守護霊と交流を持てたのでしょう。
当時は、霊的環境も現代に比べ良かったのではないかと思います。
今のように霊的環境が悪い時代には、確立された霊的なトレーニングが力を持ちます。
いつの時代も変わらないのが、霊的な法則です。
こうした法則を理解していたイエスキリストやお釈迦様も同様に、訴えかけていたものが、霊的身体の強化発達、そして霊的カルマの解消です。
霊的な救いとは、神というような高貴な存在から、遠ざかってしまったものを引き戻す、近づくことを意味します。
その手段が、霊的なトレーニングというものです。
宗教という言葉が嫌がられるような昨今でありますが、霊的なトレーニングの会である契山館は、宗教団体の定義には入りませんが、真面目に霊的なことを捉え、宗教的な姿勢でトレーニングを行っています。
霊的なトレーニング指導者である水波一郎師の 「神伝禊法」(改訂版) 新時代の霊的トレーニングが著書が発売されました。
「神伝禊法」というタイトルは、一般的に馴染の薄い言葉です。
「禊」とは、この本を読んでもらえば理解して頂けると思いますが、「神伝」というのはブランドのようなもので、金ラベルのトレーニングということです。
何が凄いかというと、この神伝禊法には段階があり、水から始まり、火、風、初伝の風、次伝が光、中伝は大気、霊、最終段階においては神の禊まで登場します。
霊魂という存在で、もうこれより先に上がない神霊という高貴な存在が関わって来ます。
そうした力を引いてしまう夢物語というか、おとぎ話のようなトレーニングが実在しているのです。
過去の歴史において、真剣に神を求め修行した人達が、心底うらやむ様なトレーニングが神伝禊法というものです。
現代のように霊的環境も悪く、全てが不安定と思えるような時代だからこそ、こうしたトレーニングが生まれたのでしょう。
確かに、もう後がないギリギリの状況なのかも知れません。
笑っていられる呑気な場合ではないのでしょう。
初出版本「神伝禊法入門」から30年近く経っています。
こうした高度な体系が存在しているのに、全くといって良いほど、世の中に浸透していないのが実状です。
とても残念ですが、僕のブログを通しても皆様のご参考となれば、うれしく思います。
霊的なトレーニングに興味のある方に、お勧めの一冊です。
なぜ今、霊的なトレーニングなのか?
なぜ、トレーニングするのか?
少し、整理してみたいと思います。
人間は、もともと霊魂です。
あの世といわれる霊魂の一部が再生し、幽体という霊的身体が肉体とダブって、今のあなたが存在しています。
そしてその幽体は、非常に未熟であるのです。
更には、この物質の世界にいく度となく生まれ、様々な経験が、過去世の記憶として残っています。
こうした記憶は気づきにくいのですが、深層心理というような形で、確実にあなたの人生を動かしています。
肉体というものは、物質世界に適応した身体のため、霊的なことがよくわかりません。
そして、今の霊的環境はとても悪い状況です。
また、人間、霊魂は想いが念となり、相手の幽体を傷つけてしまう場合があります。
こうした影響が、幽体を悪くしてしまいます。
肉体は寿命があり、必ず死後の世界に戻らねばなりません。
そこから、永遠と続くような人生が始まります。
ところが、霊的世界には法則というものが存在するのです。
幽界という死後の世界は、上下、高低というような形で、分かれています。
上の世界に入れば、とりあえず幸いといえますが、下の世界は辛く苦しむような環境です。
本来の魂としての欲求が、満たされにくい状況です。
これは高貴な霊的存在から、どんどん離れてしまったことを意味します。
では、今どうすれば良いのでしょうか?
この幽体を何としても、強化、発達させることが大事です。
ただし、心を変えたり、他者へのいたわりで成長するものではありません。
高い霊的な幽気を取り入れることが、必要なのです。
しかし、こうした幽気はどこにでもあるものではありません。
高貴な存在からの流れて来るものであり、この力を受けるには、守護霊との交流が必要です。
ところが現在の霊的環境は、とても悪くなってしまっています。
神様に祈ることも良いのですが、霊的法則という壁があり、現実は守護霊と交流しにくいような未熟な幽体です。
昔から、霊的なトレーニングが存在していました。
霊能力開発は別として、瞑想や呼吸法などがあります。
ただし、こうしたものは条件や環境が整い、はじめて力となるのです。
世間一般では、こうした指摘は、あまり聞きません。
霊的環境が悪い、これは低い方の霊魂が活動しやすい状況です。
何も知らずに行っていると、霊的に危険でさえあるのです。
低い霊魂は、人間の意思や考えなどと無関係に干渉して来ます。
それとは、逆に高級霊が存在しています。
こうした霊魂は、人間の自由意思というものを尊重します。
求めなければ何もしてくれません。
そのためには、高貴な存在を求める、信仰心といった宗教的な姿勢が必要です。
悪い霊的環境、このスモッグを突き破ってくるような、力強い高い気を吸収せねばなりません。
全くの初心者が、これらの条件、環境をつくり出すことは非常に困難です。
確立した霊的なトレーニングがあれば、手っ取り早いということです。
こうしたトレーニングは、直伝です。
なぜなら、高級霊との約束という前提が出来ている、それがなければ全て空振りに終わります。
正しい霊的知識を得て、高級霊の指導する霊的なトレーニングを実践することが、霊魂としての人間にとって、今大切なことなのです。
瞑想は危険?心配いらない?どっちなの?
ウェブ上などでは「気軽に瞑想を始めよう」とか、反面「瞑想は危険である」という人もいます。
このブログでも、タイトル「霊的なトレーニングを知ってわかった瞑想の危険性」で触れたように、場合によっては危険なことがあります。
それでも僕は、25年以上も瞑想を行っていますが、自分が変になったり、危険を感じたことはありません。
この呼吸を整え、静かに座っているという単純な行為なのですが、霊的な改善や霊的成長にもつながります。
大事なことは、瞑想が霊的なトレーニングであることを認識することです。
もともと、価値のあるトレーニングだったものが、いつの間にか基本が忘れ去られ、目的も変わってしまい、弊害が起きてしまうのです。
例えば、柔道でも受身(うけみ)を習ってから、ようやく技の練習に入ります。
練習の前にウォーミングアップで体を慣らすことは、有段者でも欠かしません。
素人がオリンピックを見て、友達とふざけて投げ技を行えば、ケガをしてしまうのです。
すると、柔道は危険だと考える人も出てきます。
瞑想であれば、低い霊魂の影響を防がなくてはいけません。
そして、霊的な身体である幽体の栄養となる高級な幽気を、取り入れることが出来れば、正しい瞑想となります。
目的をしっかり見定め、基本となる手順を踏んで行う必要があるのです。
基本は、霊的な環境づくりです。
瞑想は高級霊の影響を受けるためなのに、霊的に低い環境で行えば、いたずら目的の霊魂が関わって来ることもあります。
最近は、霊的環境がとても悪くなっています。
瞑想に限らず、日常的に、悪意を持つ霊魂と接触する危険は、十分考えられます。
特に、いたずらしやすい要因を持つ人は、要注意です。
武道とは異なり、霊的な面は人間に良くわからないことで、難しくさせています。
肉体的な好影響があったとしても、霊的な面で害があれば、意味がありません。
瞑想を続けている方の中には、知らないうちに、低い霊魂の影響を受けていることもあります。
それでも人間は、霊魂が見えないので、気づくことが出来ないのです。
本来、霊的なトレーニングは、正しい指導者の元で行うか、家庭で一人でも行えるように、安全性を考慮した体系でなければならないのです。
正しいトレーニングにおける瞑想は、霊的な成長に有益な手段です。
こうしたものであれば、ぜひともお勧めしたいのです。
高級霊が指導する団体の瞑想であれば、複数の人が集まることで、一人では出来ないような高い霊的環境になります。
普段、守護霊と交流が難しい方でも、高い霊的環境に入ることで、交流しやすくなります。
定期的に高い霊的環境に身を置くことにより、弱っている幽体に力を与えてくれます。
こうした行為が、現代人に欠けているところです。
瞑想が霊的成長に結びつくかは、霊的環境と高級霊の作用です。
瞑想が危険なのは、正しい霊的なトレーニングになっていないからです。
本を読んだり、独学で霊的成長が得られるほど甘い世界ではないようです。